シンガポール法務省及びシンガポール知的財産庁は、2017年5月に、IP振興基本計画を改定。2022年までに「知的財産の商業化」等を通じ企業成長を促すことで、15億Sドルの経済効果を生み出すことを発表しています。今回、これまでの日本企業の経験を踏まえ、日本企業がどのようにシンガポールのオープンイノベーションのエコシステムへ参入すべきか、パナソニックで知財を起点にした新規事業の創出に取組む 林(リン)さんにお話を伺いました。
――まず初めに、シンガポールにおける政府動向をお伺いできますか。
シンガポール政府は経済成長にイノベーションが欠かせないと捉え、2000年代初めくらいからイノベーション主導型経済の実現に向けた様々な政策を打ち出してきました。その結果、スタートアップエコシステムが活性化し、スタートアップの数は2015 年末時点で48,071社と、2004 年と比べて 2.1 倍増加しました。しかしながら、その事業内容は、インターネットサービスやスマートフォンアプリ開発など、ライトな領域のものが多くを占めていました。その状況を受け、政府は、近年何らかの先端技術の知財を保有するディープテック分野のスタートアップ支援をより強化する動きをみせています。
――例えばどのような分野が多いのでしょうか。
2017年に設立されたSGイノベートは、人工知能やロボティクス、ブロックチェーン、ヘルステックなどの先端分野を中心に、投資、専門人材の育成に取り組んでいます。また、規格・生産性・革新庁傘下の投資会社であるSPRINGシーズキャピタルは、知財を持ち、国外での事業拡大が見込める有望なシンガポール拠点のスタートアップに民間投資家と共同で投資する機関ですが、ディープテックに該当するスタートアップには特別枠を設け、投資額を拡大していますね。あとシンガポール知的財産庁は、IP振興基本計画の改定時に重要施策の一つとして、2017年4月に民間企業と共同で未公開株投資ファンドを設立し、知的財産に競争優位性を持つ企業に対する支援スキームも確立しています。
――想像する許認可官庁の枠を、かなり超えてますね。
はい。シンガポールでは知的財産庁が、イノベーション推進に向けたエコステム整備と活性化、IPの商業化の推進までを行っているんです。
――日本における知的財産の活用状況を教えて頂けますでしょうか。
日本特許庁の「特許行政年次報告書(2018年度)」によれば、日本企業において自社でも他社でも実施されていない、いわゆる遊休特許が保有特許数に占める割合は49%(2016年度)となっており、日本企業の特許活用割合は決して高いとは言えないと思います。
――大企業が持つ膨大な遊休知財資産を活用し経済の活性化を図ることはなかなか難しい、ということですね。
はい。他社への知財活用というと、典型的なものではライセンスや売却があります。でも、このような従来型の特許・技術ライセンスは、ライセンスを受ける側が自社の商品・サービスに必要な技術を社外から導入する技術移転という形になり、事業観点からの関わりは薄いのです。一方、知財商業化の場合は、技術に閉じた局所的な検討だけでなく、マーケットニーズに合わせ事業モデルを組み立てた上で、事業モデルとセットで技術ライセンスを行うというように、視点が異なるのです。
――日本における知財商業化の成功例としては何がありますか。
2007年に川崎市のモデル事業としてスタートした「川崎市知的財産交流事業」、通称「川崎モデル」があります。この事業では、地域産業活性化を目指し、川崎市が大企業・研究機関が保有する開放特許等の知的財産を中小企業に紹介。中小企業の製品開発や技術力の高度化、高付加価値化支援を行っています。具体的には、市の職員が大企業と中小企業の仲介役となって、大企業の知財や技術シーズと中小企業のマッチングを図ります。同事業は2018年1月までにマッチング成約30件、製品化数20件となりました。
―― 着実に実績を積み上げてますね。この川崎モデル、他でも使えそうな仕組みですね。
はい。全国の地方公共団体にも横展開されていて、地元の信用金庫や大学などと連携して行われています。川崎モデルは、地方自治体や信用金庫が仲介することによって、技術シーズを事業化するのに適した地元企業とマッチングができ、相手企業に警戒されないというメリットから、地方創生の一翼を担っているとも言えますね。当社でもこの川崎モデルを参考に、遊休知財をどうすれば、シンガポールで活用できるか、検討を重ねました。そして、イノベーションエコシステムを構成するステークホルダーへのヒアリングを通じ、知的財産に加え、知的財産を実現化した技術そのものに対するニーズがイノベーションエコシステムにあることを把握しました。
――なるほど。実際、知財・技術シーズとシンガポール企業ニーズのマッチングはスムーズにいきましたか。
いえ。マッチングをしようとしましたが実現には至りませんでした。これは、技術の移転先であるシンガポール企業と、日本企業が提供する技術間にギャップがあることが要因であったと考えています。技術の移転先であるシンガポール企業は、限られたリソースの中で事業に有用な技術を探していて、カスタマイズに必要な追加開発の工数は最小限に抑えたい。一方で、遊休知財を活用したい日本企業にとっては、現地ニーズの把握は困難であり、仮に現地ニーズを把握できたとしても日本で生まれた技術シーズの多くは、現地ニーズに合うようにカスタマイズされていないため、追加開発が必要となってしまいます。
――技術シーズを提供する日本企業側と、それを受け取り事業に結び付けたい現地企業(ニーズ)の間のギャップがあることが原因であれば、そのギャップを埋めることが必要になる、ということでしょうか。
その通りです。川崎モデルにおける仲介役は技術と事業のマッチングを図る役割を担っていますが、シンガポールにおいてはそれに加え、現地の社会的な課題から生まれたニーズをしっかり把握して、そのニーズを満たすべく、技術シーズをカスタマイズして、中小企業やスタートアップが使いやすい形で提供できる能力のあるパートナーが必要となります。また、このような追加開発には、コストと時間がかかるので、これらを最小限に抑えることも重要となってきます。
――企業や公的機関の技術開発能力はどのように見極めれば良いのでしょうか。指標などはあるものでしょうか。
指標のひとつとして、特許出願件数があります。シンガポール知財庁の2017年-2018年の統計レポートによるとシンガポールの特許出願において、国内出願人による出願のうち、上位3位はASTAR(シンガポール科学技術研究庁)、シンガポール国立大学、南洋理工大学と公的機関が独占しており、この3者による出願が出願数全体の80%を占めている。このように出願人の所属が日本と異なった様相を呈している理由は、政府の強力なリーダーシップの元、莫大な予算が公的機関につけられて、最先端の研究開発活動が進められていて、そこでの研究成果は産業界に還元されることを目的としています。ある意味、これらの公的機関は現地企業のR&D機関のような役割を担っているとも考えられますね。
――シンガポールの大学の特徴などは、何かありますか。
3つ挙げられると思います。まず一つ目は、技術の商業化がKPIに含まれていること。これは、ディープテック系スタートアップをシンガポールから輩出したいことも背景にあると思います。二つ目は、産業界との結びつきが強く、現地ニーズを大学がある程度把握していることです。最後、三つ目としては、日本と比べ、学生の起業意識が高いことです。
――それらの特徴を把握したことは、今の取り組みに繋がりましたか。
はい。大学には「技術シーズ」を応用展開する技術開発能力、「現地ニーズ」を把握する能力、そしてこのような活動に取り組む動機があると考え、「技術シーズ」と「現地ニーズ」のギャップを埋めてもらうパートナーには大学が適切だと判断しました。こうして、現地の大学と連携し、知財の商業化を図る、オープンイノベーションの取組みを開始することができました。
――最後に、今後の展開をお聞かせ頂けますか。
シンガポールでの取組みを通じ、感じたことは、様々な要素が寄与し、当地でのオープンイノベーションの成功確率を高めているということです。「政府のイノベーション振興政策」企業のR&D機関として機能する「大学の現地ニーズを察知する能力と技術開発能力」。これに加えて、日本にはない「多様性やスピード感」、そして成長するASEANマーケットに近いことでシンガポールを「実証の場として活用できること」、などなど。この知財を起点としたシンガポールでのオープンイノベーション活動の意義は、ポテンシャルはあるけど十分に自社事業に活用されていない日本の技術シーズを、シンガポールでASEANニーズに合った形で応用展開することで価値を見える化し、ASEANが抱える社会課題への新たなソリューションとして提供できることにあると思っています。そして、さまざまな人種に溢れ、人材の流動性の高いシンガポールは、イノベーションに寄与する多様性の要素である、性別、人種、アカデミックバックグラウンド、キャリアパスなどを備えており、この活動に適した環境が整っていると思います。このシンガポールの多様性を活かしながら、活動を加速させていきたいです。
林珠里(りんじゅり)
ニューヨーク州弁護士。ニューヨーク大学法科大学院卒業。2008年パナソニック入社以降、知財法務として、米国特許訴訟、共同開発、ソフトウェアライセンスなど、国内外の案件を担当し、幅広い経験を積む。2015年以降はASEAN知財拠点の制度・基盤整備とともに新しい知財活動の立上げに従事。2017年よりシンガポールに駐在。シンガポールをはじめとするASEAN地域でのオープンイノベーション活動を推進し、知財を起点に新規事業の創出に取組む。
Interviewer:伊藤隆彦(One&Co)
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